(此の、森から抜けられれば・・・)

そうしたら取り敢えず、逃げられるだろうと
キノトは先刻、確かにそう言っていた。

「瀧が・・・ある場所を目指し・・・て・・・」

必死に走る幸村の耳にも届いた、轟音。
其れは確かに、瀧の流れ落ちる音ではあったのだけれど。

「これは・・・」

目の当たりにして、思わず絶句した。
遙か深淵へと誘う、巨大な瀧が其処にはあった。
この高さでは、到底堕ちれば助からない。

(そうか・・・キノト殿ならば、此処から容易に降りることが出来たという意味か。)

涼しい顔をして、闇に舞い散る白い飛沫の果てへ、優雅に身を躍らすキノトの姿が一瞬、瞼の裏に浮かんだ。
しかし只の人間の身に過ぎない幸村に、そんな芸当は出来ない。

どこか、此処以外の抜け道を・・・

そう思い、辺りを見回した、瞬間だった。


「見つけたぞ、幸村。心配させて・・・」
「・・・・・あに、うえ ...」

傍目には穏やかで優しげな、しかし渦巻くような黒い焔が滲む表情で
信幸が、其処にいた。


「さあ帰ろう。お前を惑わす者は皆消えた。私と共に在ることこそが、お前の幸せなのだ。さあ。」
「・・・いやです。」

穏やかな微笑を崩さない信幸に
幸村は凛と、言い放った。
信幸は仕方のないヤツだ、と苦笑する。

「分からない子だね。大阪城で死んだと言われていたのにこんなに元気でいてくれて、
 私がどれ程喜んだか、分からないお前ではないだろう?
 今まで、辛かったな。もう二度と、そんな思いはさせない。さあ、来るんだ。」
「私は、これまでの人生を、辛いだなどと思ったことは一度たりともありません。」

迷いのない、眼差しであった。
信幸の顔が少しだけ引きつる。

「強がらなくて良いんだぞ、幸村。長篠での敗走以降は辛いことの連続で・・・・」
「其れは、兄上のお考えでしょう。私は、そう思ったことなど無いのです。」

楚々と
視線を伏せ、幸村は続けた。

「確かに、あの時は辛かった。死にたいとさえ思ったこともあります。
 けれど、その後私はかけがえのない友に恵まれた。生きる理由がもう一度見つかった。
 結果は兄上もご存じの通りですが、私も三成殿も兼続殿も、この結末に悔いなどありません。」

信幸は信じられないものを見る目で、実弟の告白を聞いていた。
其の、空気が危険なモノへと変わりゆく中で、幸村は構わず言葉を紡ぐ。

「私達は、己の信念をかけて、世の命運を分かつ戦の中に身を投じ、そして最期を迎えたのです。
 自ら選んだ道に、どうして後悔や不満がありましょうか。少なくとも、今の私にはありません。だから、」

幸村は其処で言葉を区切り、視線を上げて微笑んだ。

「兄上の元へは行けないのです。」

柔らかな、笑みだった。
其の笑顔を向けられた瞬間、

信幸の中で、何かが、切れた。


「そうやってお前は私を拒むのか!ボロボロのお前を利用し、太平の世の転覆を画策するような者たちの方が
 私より良いというのか!?私の傍らではなく、人ならざる化け物の傍らを選ぶというのか!!?」
「彼らの望みは天下などではありません、兄上。」

狂ったような
深すぎる愛情を真正面から受け止めて尚、静謐に幸村は言う。

生きたかった。不意にそう思った。
彼らの望みの侭に生きたかった、と。

慈しみの眼差しを、惜しみなく注いでくれた友の望みに応えて。

嗚呼・・・でももう、其の望みも・・・叶わない・・・

「彼らの望みは、私の幸せ、只其れだけ。そして其れは、兄上には叶えられないのです。」

私には、私の生きる道があり
あなたという鳥籠の中では叶わない空が其れだから

「彼らの望みを無駄には出来ない。私に託された彼らの願いを、無駄には。」

一歩
幸村が後退った。
其の先に地面はない。あるのはただ、どうどうと流れ落ちる瀧ばかり。

「残された私の幸せは、あなたに囚われず此処で此の命を終わらせること。
 兄上、道は歪んでしまっても、あなたが私を愛してくれたことは有り難く思います。ですが」

ふわり

幸村の鉢巻が、風に煽られて舞い上がる。

「あなたの望みの侭には、生きられないのです。」



・・・・・さようなら


小さな声は、砕け散る瀧の音に掻き消されて
直後響き渡ったのは、紛れもない・・・

呪詛の絶叫であった。







時は流れて

其の河は、夏ともなればキャンプの客でにぎわう避暑地となっていた。

誰も、400年前に此処で起きた悲劇の話など知らない。

其れは、歴史が闇に葬った事実。

永遠に語られることのない、或るひとつの挿話だから。

しかし

此の河と、そして瀧には、何時の頃からか伝わる奇怪な伝説があるという。


訪れる者が多いのに、水難事故が絶えない場所。
奇跡的に生還した者は、口を揃えてこう言う。


「水の底に、紅い鎧の男が居た。」
「紅い鎧に包まれた腕に助けられた。」
「歌を聴いた。」
「悲しげに響く、青年の歌声を聞いた。」

河に眠る魂

誰も知らない歴史の闇に眠る者


“ローレライ”


彼は今も尚、兄の妄執と闘うべく其処にいるのだ

400年前・・・決意の眼差しで此処に身を投じた、あの頃の侭



幸村に拒絶された信幸は、其の後失意の内に没したという。
しかし、彼の妄執は消えなかった。
黒い焔は、弟と永遠に分かたれたあの場所で燃え続けていた。
主を喪った妄念は何時しか怨念と化し、目的を見失ったまま燃え続けている。

今、も。

だから幸村は、戦わねばならないと思ったのだ。
此処に、この怨念を残させたのは自分。
されば、戦って浄化させるのは自分の役目、と。

沈んだ魂が、其の水面から上に干渉できないことに気づけずに。










――――― あなたが犠牲者を欲し続けるのなら

      私は少しでも其の犠牲者を減らすべく

      此の河の命となり・・・あなたの妄執と戦い続けましょう ...











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