「天下の趨勢は定まってしまったな。」

数日後の、夜。
まだ傷が癒えない幸村は何時も、早くに寝かしつけられる。
そうして夜が更けた頃、残された者たちは黒鳥の真意を問い質すのである。
誰がどう見ても、盤石な徳川の天下。
其処に新たな動乱を持ち込むのはどう考えても。

「此処で戦を起こすのは、義に反する。」
「徳川転覆など、誰も考えてはいないよ、三成。」

詰め寄る三成に、キノトは苦笑で答える。
しかし、三成の疑問はそのまま、其処にいる全員の疑問であった。

「大阪の陣の直後か、関ヶ原の直後に事態を動かせなかったのか?」
「すまない。わたしが動くに動けなかったのだよ。まだ力も八割程度しか戻っていない。」
「キノト、私も聞きたいことはある。此処にいる者の大半は、お前の工作によって
 死んだと偽装された者ばかりだ。そうまでして我々を、世間の目から遠ざける真意が知りたい。」

誤魔化しを赦さない、兼続の鋭い眼差しに。
キノトは、痛ましげに顔を伏せて静かに云う。

「或る者から、幸村を守る為に選んだ手段だ。そうしなければ幸村の命が無いと知れていた。」

瞬間、場がどよめいた。

「幸村の命を狙う者が居る、と?」
「其れは、半分正解で半分間違いだ、三成。」
「するってぇと、其奴ぁ知らず知らずのうちに幸村を死に至らしめることが出来る、ってぇことかい?」
「まあ、そんなことになるだろうかな。」
「訳が分からないね。知らないうちに人一人を死なせるなんて、そんな話があるのか?」
「強すぎる思いが故に歪みを生ずる。其の歪みが、幸村の命を奪う。そういう者が居るのだよ。」
「キノト。はっきり言ってくれ。其の或る者は一体誰だ?」

今度は三成が、逃げを許さない声で問う。
暗灰色の布の下、朝焼け色の眸で全員を楚々と見渡してから。
キノトは、はっきりと其の者の名を云った。

「真田信幸。幸村の、実兄だよ。」

全員が
息を呑む音が響いた。

「信幸殿が?」
「莫迦な、キノト・・・幾ら何でも其れは思い過ごしだ!」

兼続と三成が、ほぼ同時に叫んだ。
しかしキノトは、細い首を横に振り、云う。

「真実だよ。其の因果律を、わたしは視た。」
「しかしねぇ・・・幾ら何でも、実の兄弟で愛憎劇は無いんじゃないか?ま、兄妹ならありそうな話だが。」
「笑い話じゃないのだよ、左近。」

キノトの声は暗い。

「信幸の思いは強すぎる。大阪城に荒れ狂った彼の思念がまだ、幸村を捜しているのだよ。」

静かに、キノトは続ける。

「彼にとって、幸村は只の弟では済まされない存在らしいね。
 如何に、溺愛していたかが手に取るように分かる。
 其れはお前たちにも、思い当たる節があるはずだよ、兼続、三成。」

云われて、今度は二人が言葉に詰まる。
事実其の通りなのだ。

兼続は大阪城で味方として出会った時に。
三成は関ヶ原前に遣り取りした手紙の中で。

それぞれ、信幸の幸村に対する思いの深さを思い知っていた。
其の深さ、強さ、最早肉親の情では済まされない域の ...

黙する二人を見遣り、慶次も左近も其れが真実なのだと心得たようだった。

「このまま、幸村を世間の目から隠し続ける。其れこそが徳川への唯一にして最大の報復となる。
 そう心得てもらいたい。」

黙したまま全員が頷いた。
キノトは微苦笑して、「ありがとう」と云った。


「成る程な。上杉を守る為に私に死んでくれとは、そういう意味だったのか。」

ややあって。
ポツリ、独白するように兼続が呟いた。

「私が生きていれば、たとえ幸村戦死の報が届いても、こっそりと助けた嫌疑をかけられる、
 そういう道理か。」

キノトは黙って、頷いた。

「そして、居ないと言おうものならば其れが嘘であれ、真実であれ、上杉殲滅の戦禍が上がる。」
「そうだよ。殲滅して、鏖して、其れで居ないと分かるまで彼の焔は燃え続ける。
 お前が生きていれば、たとえ幸村が本当に死んでいたとしても、上杉は滅ぼされていた。」
「では、俺と左近も同様の理由でこの様に生き残ったのか!?」
「其れは、違う。」

掴みかかりそうな勢いで身を乗り出した三成に
キノトは静かに返した。

「関ヶ原の時は正直、お前たちを助けることしか頭になかった。西軍総崩れは予想していたが、
 あれ程までに瓦解が早いとは思っていなかったから、取れる手段も限られた。」
「キノト。お前が其の『因果律』ってヤツを視たのは何時なんだ?」

激しい怒りを涼やかな目元に浮かべたままの三成を抱きかかえるようにして、左近が問う。

「関ヶ原の、戦後だよ。あの、荒野と化した爪痕の中に、荒れ狂う信幸の思いが渦巻いていた。」

恐ろしい、記憶を手繰るように
キノトの色の白い指先が、胸の辺りをぎゅうと握りしめている。

「没した者たちの無念でもなければ、踏みにじられた大地の嘆きでもなく。
 ただ、この場に弟の姿はないか、弟の身は無事なのかと、狂ったように渦巻く黒い焔が燃えていた。
 空一面に・・・まるで忌まわしい魔物がのたうちまわるように。」

しかし其の時信幸は、確か上田で他ならぬ幸村本人と対峙していたはずなのだが。
其の疑問を慶次がぶつけると、キノトは力なく笑って、

「上田にいたのはもしかしたら影で、本物の幸村は友を助けに馳せ参じたのではないかと。
 そう危惧していたらしい。つくづく、幸村が絡むと人格が変わる男だ。」

低い、声であった。

「ということは、其の後自分の処に来なかったことで、余計拍車がかかっちまったんじゃないのかい?」

なんやかやでいろいろ知っている慶次は、関ヶ原で西軍が敗走した後、幸村が父親の昌幸共々幽閉されていたことも知っていた。
そして、其の時信幸がどちらか独りを・・・有り体に言えば幸村を、自分の手元に置きたいと奔走したことも。
しかし家康は承諾したものの幸村は首を縦には振らず、親子揃って高野山麓に流されたのだ。

「ああ、あの時も空が黒く染まったね。」

あの思念は、傷跡に染みるよ。
キノトは苦い声で呟く。

「ともあれ、彼の手に幸村が堕ちれば、其処ですべてが終わる。あの子は殺される、確実に。
 信幸の愛情に殺されてしまう。其れだけは避けたい。」

だから、とキノトは顔を上げた。

「頼みたいことと、協力してほしいこと、そして承諾してほしいことがあるのだよ。」

何事かと、場にいた全員が居住まいを正した時だった。


ひらり、ひらりと
目を瞠るほどに巨大な黒い蝶が室内を舞った。
気付いたキノトがすかさず手を差し伸べると、蝶は大人しく其の手の甲に止まった。

「一族の言伝蝶だ。こんな処に・・・」

訝っていたキノトの顔が、みるみるうちに驚愕と戦慄の色彩に変わる。

「なんということだ・・・・これは・・・・」

呻く声、震える手。

「どうした、何事だ!?」

か細い両肩を掴んで、三成が正面から向き合う。
震える手を、キノトは肩を掴む三成の腕に添える。
そして、絞り出すような声で・・・云った。

「ツチノエが・・・幸村と、同じ顔をした我が一族の者が、殺された。」











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