霧の森に蝶は舞う
白い闇に閉ざされた深淵にひらひら、ひらひらと
深紅の鱗翅を仄光らせて
久遠の導のように
キノトがふいと唇を開いたのは、月蝕の夜だった。
「霧に微睡む夜の森には、紅い蝶が舞うのだよ。」
異郷の島歌を口ずさむ聲に誘われ、其の横に腰を下ろした幸村に
キノトは、微笑してそう教えた。
「キノト殿は、ご覧になったことがあるのですか?」
「見たも何も、島の森の記憶さ。強い光は我等一族の毒だが、皆其の蝶の仄明かりは
好きでね。霧深い夜には、三々五々連れ立って森へ行ったものだ。」
懐かしそうに言う、其の青白い唇が麗しかった。
平生から、感情のすべてを覆い隠して目に触れさせないこの黒鳥が、そんな風に故郷のことを語るのを聞いたのは、
思えば幸村にとって、このときが初めてであった。
「それは・・・きっと美しいのでしょうね。」
この麗しい異人が言うのだ、きっときっと、美しいモノなのだろう、と。
今ひとつ鮮明な像を結ばぬ風景を思い描きながら、幸村は言った。
一度見てみたいとは思うが、場所が場所だけに其れは叶わないだろう、あどけなさを覗かせる幸村の微苦笑に、
「ああ。とても綺麗だから・・・今度見に行こう。」
事も無げに。
麗しく、泰然と、黒鳥は言い放った。
無論、幸村が目を丸くしたのは・・・・言うまでも、無い。
そんな一件から、数日後。
「確かに、そんな約束もしたね。そしてわたしは先日、次の霧月夜に出掛けよう、とも言った。」
「すみません。けれど、楽しみで、黙っていられなかったのです。」
嘆息するキノトに、幸村はひたすら頭を下げ続けた。
と、言うのも。
「いくら貴様とて、夜な夜な幸村を連れ回すなどという不埒を、俺が許すと思ったか。」
「闇人の長たるモノが、不義とは感心せんぞ、キノト!」
楽しみすぎて自然と顔が綻ぶのを隠せなかった幸村が、三成と兼続にぽろっと伝えてしまったのである。
こと幸村が絡むと人格の変わる保護者2人が、「夜更けに幸村と2人でひとけのない森へ行く」なんぞという事態を
静観できよう筈もなく。
「まあ、怒っているわけではないし。絶景は少数の目で楽しむべきでは無かろうからね。
幸村、気にしなくていい。そして三成、兼続、黙っていてすまなかった、正直に詫びておくよ。」
もとより、やましい目的など微塵もなかったキノトである。引率人数が増えたところで動じないのだ、この黒鳥は。
が、其の穏やかな声音の威力は絶大で、忽ち幸村は安堵の笑みを浮かべ、三成も兼続も愁眉を開いた。
「さあ、では出掛けるとしようか。ああ、ひとつだけ言っておく。
霧の夜は、彼岸と此岸の境を曖昧にする魔の夜だ。迂闊な行動は避けてくれ。
有り体に言えば・・・再び此処へ戻ってくるまで、三人とも言ノ葉を発してはならないよ。
形を得た途端、惑わして引きずり込もうとする異形など、霧の中には無数にいるのだからね。」
凛、優しいながらも緊張した声音に、三人とも頷いた。
の、だが。
「それはわかったのだが・・・何故私の方ばかり見て言うのだ。」
兼続は首を傾げ、そう呟いた。理由など言うまでも無しである。
蒼い月を朧に滲ませ、霧は白く深く漂っていた。
甲斐・武田領、幸村のよく知った森の、まだ入り口であるというのに。
三成も兼続も、桜の季節に来たことのある場所だというのに。
まるで、異界であった。
噎せ返るような、木々と水滴と夜の匂い。
土を踏む四人の、かさかさという跫音・・・しか聞こえない。其れも厳密には、三人分しか。
朽ち葉の降り積もった地を歩いてなお、黒鳥に跫音というものは生じないのであった。
「幸村、兼続、わたしの手を離してはならない。いいね。三成も。幸村の手をしっかりと握っておいで。」
楚々と、夜霧を静かに揺らす程度に、キノトが言う。
三人は無言で頷いて、幸村はキノトの右手を、兼続は左手を、そして三成は幸村の右手を、しっかり握り締めた。
流れ流れゆく霧の狭間に、何か蒼く、光るモノを視た。
木々から滴る水滴のような、何かの囁きが聞こえた。
遠く、長く尾を引いて哀しげに消えたあれは、なんの鳴き声であろうか。
ひらり、ふわり、優美な羽根の生えた魚が目の前を横切って泳いでいく。
曹灰長石のように煌めく小鳥が羽ばたくと、其の翼の動きに従って空気が波紋を揺らした。
「三人とも。足元を見てご覧。」
キノトが足を止めた。視線を落とした、その場には。
「『つきはみ』の花だ。月明かりの下で咲くことの出来ない、奥ゆかしき麗人さ。」
空が凍るほどに蒼く匂い立つ、小さな小さな花たちが点々と座していた。
「この花があるということは・・・・」
闇の中に何かを見出そうとするかのように。
キノトが、悠然と視線を巡らせた。
そして
「・・・ ・・・ ・・・・・ ・・・・・ ~♪」
異郷の言葉で、異郷の音色を、其の唇が紡いだ。
其の響きは霧を揺らして、夜を彩って、楚々と、深々と響き渡り、深淵へと融けていく。
其れは最早、「聲」という域を超えた「何か」であった。
耳ではなく魂を揺らし、掴み、吹き抜けていく風のようであった。
しかし、白い闇はただたゆたうばかり。相変わらず、底の見えない異界を見せるだけだ。
「まだ、もう少し進む必要があるようだ。」
申し訳なさげに言うキノトに、三人は無言のまま頷いた。
唇を開いては、ならぬ。其の制約も、森の空気も、息苦しいほどに人間を拒んでいるのは感じられたけれど。
此処で退いては、霧月夜に舞う蝶は見られないのだ。
大切な友と、其の風景を見たい。幸村も三成も兼続も、思いは一緒だった。
やがて
四人は、森の開けた場所にたどり着いた。
其処だけぽっかりと口を開けたような空はただ白く霞んで、月を微睡ませて。
其の吸い込まれそうな夜の匂いと色彩に、魅入られたように三成がバランスを崩した。
「!!」
当然、手を繋いだままの幸村も引っ張られ、尻餅をつく。
見遣りながら身構えていたキノトは流石にしなやかに身を捌いたが、兼続は完全に引きずられる格好で崩れ落ちた。
「っ、」
「幸村。」
思わず、「三成殿、」と声を上げかけた幸村を、キノトは小さく制した。
転けた瞬間叫びそうになっていた兼続は、握り締めた左手に、ぐ、と力が籠もったので、どうにか声を上げずに済んだらしい。
「ほらほら。言ノ葉を発してはならないと言ったろう?」
短く、キノトは言いながら微苦笑して。
空を仰ぐと、また紡いだ。
異国の歌。異郷の音曲。
「・・・ ・・・ ・・・・ ・・・・・ ~♪」
夜を揺らし、霧を揺らす、其の「聲」に誘われるようにして
息を呑む三人の目の前で、最初の深紅が、幸村の足下から舞い上がった。
其れは、ひとつ、ふたつ、みっつと、数を増しながら無数に浮かび上がり空へ上っていく。
紅い、蝶であった。
其の鱗翅は輪郭だけで、散り惑う魂のような煌めきを帯びている。
月に焦がれるように、空へと解き放たれていくように、ひとつ、またひとつ、飛び立ち舞い上がって空へ、空へ。
郷愁を誘う調べに合わせるようにして、白い闇を染めていく。
何時しか四人は、紅い蝶に包まれて座り込んでいた。
どんな言葉も、感嘆の吐息すら、出てなどこなかった。
此の世の光景ではない其の幻想風景に、ただ見入るばかりだった。
どれくらい、そうしていたのだろうか。
「さあ、帰ろう。」
言いながらキノトが、道服の裾を叩いて立ち上がった。
其れで我に返れば既に霧は晴れ、蒼碧の満月が傾きながら森を照らしていた。
もう喋って大丈夫、しかし、誰もなんにも言えなかった。
まだ、目の前をあの幻想の深紅が揺らめいている気がして。
まだ、静かに霧が包む幻想の森が、何処かで口を開けている気がして。
無言で頷き、幸村と兼続は立ち上がった。しかし三成は呆然、へたり込んだままである。
「大丈夫かい、三成。」
心配そうに覗き込むキノトの背後で、とさ、と音がする。
振り返れば兼続が、三成と同様の体で座り込んでしまっている。
「霧月夜にあてられたかな。まあしかたのないことさ。」
いつもの調子でキノトは言いながら、軽々と兼続を抱え上げた。
そして、座り込まないまでもまだ茫然自失から抜けられない幸村に微笑みかけて、
「幸村。悪いが、三成を連れて行ってくれるかい?流石にわたしも、2人を抱きかかえていくのは無理だから。」
あの、歌を紡いでいた時とはまるで違う、いつも通りの穏やかな声で、そう言った。
道中、兼続と三成はそのまま寝入ってしまったようだった。
「まったく、一番子どもなのは誰なんだか。」
呆れたようにキノトは笑った。幸村も、つられて少し、笑った。
ふと、振り返れば其処に在るのはただ、蒼い月に照らされた夜の森。
あの景色は其れこそ、夢か幻であったのかと思えるほどに、普通の夜の景色であった。
「幻想ではないよ。」
見透かしたように、キノトが言った。
「紅い蝶の乱舞明滅、お前は確かに見たのだよ、幸村。お前だけではない。
兼続も三成も、しかと其の目で見たのだよ。」
ともすれば、容易く其の姿を垣間見せる、異界の端を。
本来ならば目にすることなど出来なかったはずの、其の光景を思い出しながら、
「・・・はい。」
幸村は小さく、しかし力強く、頷いた。
霧の月夜には蝶が舞う
白い深淵を染めて、月に焦がれてひらひらと
其の深紅は鱗翅から舞い落ち、虚空に散って煌めいて
楚々と、異界の片隅に灯るのだという