誰よりも愛しいあなただから

最期の、散り逝く其の刹那まで

誰よりも、気高く在って欲しくて







かなたにあるもの





闇の中、信玄目を醒ました。
湿って澱んだ空気が鼻につく。

「気が付かれましたか、お館様。」
「・・・勘助か。」

静謐な声に、全てを思い出す。
ああ、自分は負けたのだ、と。


長篠の戦は、武田の完敗であった。
最強の筈の騎馬隊は、無惨に蹴散らされ
此まで負け無しだった必勝の策さえ、通じなかった。

「幸村と、佐助は?」
「最期の瞬間まで、勇猛果敢に闘った、と。」
「・・・・そう、か。」

終わった。
誰より慈しんで育てた幸村の、戦死の報に其の思いが否が応にも増してくる。
そして、佐助も喪った。
もう、武田に再起の道は、無い。

「何故、わしとお前だけ生かされておるのだ?」
「見せしめとして、公開処刑にすると。明智が先程、喜々として申していきました。」
「成る程。」

天魔王の、信長らしいやり方だと、思う。
散々自軍を苦しめた相手に、最大級に屈辱的な死に様を用意するとは。

「処刑、か。」
「天魔王に盾突いたかどだとか。」
「魔王の覇道の下では、甲斐の虎も愚かな反逆者扱いじゃな。」

もう、自嘲の笑みしか浮かばなかった。
其れにしても、口惜しい。
せめて戦場で、武人として屠られていたならまだしも。

処刑。
まるで罪人のように、惨殺される身の上だ。
甲斐の虎が、武田信玄が。
寄り添う此の賢才の、紫水晶と共に。

「済まぬな、勘助。無様な最期にまで付き合わせる。」

何時もの調子で言えば、

「お館様と共に参るのであれば、無限地獄への道とて、至福の旅路にございます。」

伏せる怜悧な隻眼に、言ノ葉には決して表さない、思慕と後悔が色濃く刻まれていた。


けれど、と。
ややあってから吐息のように、麗しい声が紡ぐ。

「拙僧はやはり、耐えられませぬ。お館様が、罪人扱いされて殺されるなど。」

今まで必死に取り繕っていたのだろう、零れた本音は、やり場のない怒りに掠れて震えていた。

「勘助、良いのだ。敗軍の将たるこの身、無様に殺されるは相応の末路よ。」
「敗将にも、武士として残された矜持がございましょう。」
「当然じゃ。されど、お前の其の怒りだけで、わしは充分だ。自決しようにも牢に繋がれておるのだぞ、
 甘んじるしかなかろう。」
「いいえ。唯一、お館様の名を汚さぬ方法が。」

言いながら白い指で、結い上げた桜の古木色の髪を探る。
繊細な指がそっと取り出したのは、笹の葉で包んだ何か。

「其れは?」
「お館様の名を汚さぬ、最後の護りにございます。」

つまりは、毒だ。
これを飲んで自決すれば、確かに信玄の甲斐の虎としての名は護られる。
そして、おそらくは勘助手製の薬。
効果の程は確実であろう。

「勘助よ。」
「はい。」
「お前を得たことこそ、わしの生涯最高の幸福であった。」
「勿体ない、お言葉。」

麗しい、愛しき紫水晶は、優しい吐息のように答えた。


丁寧に葉の包みを解けば、僅かばかりの真っ白い粉末。

「一人分、なのです。」

まあ、複数名分持ち歩くような代物でもないのだが。
死を以てでしか武田を護れない、そんな事態に備えて、勘助が自分用にと調合したものなのだ。


口に流し込んだ粉に、味はなく。

其の刹那、歯を食いしばって泣き出しそうになるのを堪えた勘助の唇を、信玄は捉えた。

深く深く、吐息の一つも漏らすまいとするように、重ね合わせて。
嬌艶なる闇の全てを刻み込もうとする如く、舌を搦めて。
手で、指で、勘助の華奢な躰をなぞり、髪を梳いて。

それら全てが、凍り付いたように重く、動かなくなったのは、直後のこと。


起こした上体を支えきれず、崩れ落ちて眺める白皙の美貌。
明かり取りの小さな窓から流れ込む月光が、隻眼から零れた一滴の涙を真珠に変えて。

勘助。
我が最愛の紫水晶。
山本勘助晴幸よ。

紡ごうとした声は、喉の奥で霧散した。
伸ばそうとした腕は、目に見えぬ亡者に押さえ付けられたかのように、地に落ちた。

愛しています、お館様。
他の、誰よりも、何よりも
ただ、あなた様のことだけを、拙僧は

愛しい声は、そう確かに紡いでいた。
薄い紗の幕を隔てた、向こう側のように遠かったけれど。

やがて、其の幕は不透明な色彩を強めて

漆黒へと変じた。

何も、聞こえなくなった。





翌朝。
信玄の亡骸を抱きかかえていた勘助は、京の都、四条河原で火炙りに処された。
お館様は手厚く葬れ。
静かな、けれど鬼気迫る其の言葉に、魔王織田信長でさえ頷いてしまったという。

自ら調合した猛毒でさえ死ねなんだ。
ぽつり、そう零す勘助の全身に、可燃性の油が盛大に注がれる。
点火の方法も屈辱的で(多分明智の発案だと勘助は思った)、火矢を射かけるのだという。
皆一様に怯えた顔をしながらも、嬌艶の闇軍師の断末魔を楽しみにしているようで。

笑えた。

魔王の号令一下、無数の火矢が降りそそぎ、幾つかは勘助の躰を貫いた。
刹那。
堪えきれず迸った呵々大笑は、自嘲か其れとも哀れみか。

上杉と伊達は同盟し、最北の一揆衆を手勢に加え、打倒織田を旗印に南下するだろう。
四国の長曾我部・中国の毛利は手を組んで、何れ薩摩の島津と共に北上を開始する。
挟撃されれば、魔王の軍など風の前の塵、跡形もなく朽ち散らされる末路を辿る。
と思えば、此の程度の結果に満足し、怯えながらも喜びに酔いしれる姿にはただ笑いしか込み上げてこない。

まるで焦熱地獄の劫火に焼かれながら、混迷の未来を示し続ける人の世そのものを笑うように。
勘助は、命の尽きる其の瞬間まで、狂気の高嗤いを上げ続けていた。



所詮、魔王の覇道も混沌の未来の一欠片

高みから、嘲笑い続けてやろう

愛しい愛しい、あの方の腕に抱かれて








†††††††††††††††
武田軍の終焉、一つのカタチ。
これはアリだと思う、勘助ならやりかねない。
毒薬の一つや二つ調合して持ってるって、コイツは。
其れでも死ねない。恐るべし刺青の聲(違)
ちなみに、勘助が予想した織田軍包囲網は現実のものとなり、織田も壊滅します。
天下取るのは何処になるかな。