薄墨色の月光の下 紅い水面から伸びる腕
白く か細い其の手は招く
綻びた傷を抱いた記憶を
腕に招かれる
飛び起きる
関ヶ原以後、清正は必ず深夜に、こうやって飛び起きる癖がついていた。
けたたましく打ち付ける鼓動に苛つきながら、前髪をかき上げる手首にふいと違和感が走る。
月光に右の手首を透かせば、案の定。
「夢だと、思わせてはくれないんだな。」
明らか、其れは握り締めた手の痕。其の手の主の名など、言わずと知れた...
なあ。
呼びかける声に、答えるべき彼の人は既に、此の世より喪われて久しい。
其れは、月のある夜もない夜も、決まって訪れる跫音から始まる。
影もないのに、気配もないのに、ただ、聞き慣れた跫音が障子の外に降りる。
とん、と。其れは軽やかに、小さく、しかし確かなリズムを刻んで遠離り。
其の、音から連想される面影に追い縋るように布団をはね除ける。障子を開け放つ。
見れば誰も居ない板張りの廊下、しかし確かに聞こえる音。
とん、とん、とん、とん、遠離る軽やかな其れはもういないはずの彼の人の。
『三成・・・』
斬首されたと聞いていた。実際曝された白い首を見た。死んでなお綺麗なその顔をしかと見届けた。
なのに。
首から離され失われたはずのその跫音は、清正を毎夜誘うのだ、軽やかに、軽やかに。
逃げればいい、と思う。其れ以前に有り得るはずもないと切り捨てればいいと。
けれど。
恐ろしさよりも、馬鹿げていると思う心よりも、いつも勝るのは愛しさと、哀しみと、懐かしさ。
其れらに突き動かされる衝動のまま、気が付けば必死で跫音を追う自分が居る。
招かれ、辿りつく先はいつも決まっていた。
庭の片隅にある井戸は、問題もないのにあまり使われない場所だ。
曰くがあるわけではない、ただ奥まっていて正直少し使い勝手がよろしくないだけ。
そんなところに井戸がある理由が抑も謎なのだが、今問うべきは其処ではない。
井戸の縁に、白い手が乗っかっている、其の事実、其方の方をこそ問うべきである。
女にしては少々ごつい、しかし男にしては色の白く繊細な、其れは三成の手だ。
最早永劫失われたはずの其れが、何故か井戸の縁に乗っかっている。
其れ、は。
まるで清正を待っていたように、ゆっくりと指を伸ばし。
おいで
おいで
二度、三度、と清正を招いて、そのまま井戸の奥底へと消えていく。
井戸の底は冥府へと至る暗夜行路と、子供心に聞かされた話がこんなときになって思い出される。
不思議なことに、此処でもいつも、恐怖より逢いたい気持ちが競り勝つのだ。
だから、清正は招かれるままに井戸を覗き込む。身を乗り出して、手を探すように。
すると、不思議なことに今の今まで招いていた三成の手は其処にはなく。
本来ならば一点の光も届かぬはずの闇の井戸の底に、ポツリ、紅く何かが灯っているのが見て取れるのだ。
其れは、紅い水面である。
深紅の花弁が散り敷かれているのか、はたまた水其れ自体が紅いのか、それは分からない。
分からないのだけれど。
『其処に・・・居るのか。』
紅い水底、此の世という鎖から解き放たれた三成が座している。
見えたわけではない、そう直感しただけ。
そうすれば、忽ちの内に、今度は両の腕が伸ばされる。
覗き込む清正を、今にも引きずり込まんとする、三成の白い両腕・・・・。
其の、手が
井戸の底より伸びる白い手が、清正の右手首を掴む。
見た目とは裏腹に、異様なまでに力の強い其れは、万力のような握力で、ぐ、と。
其処で覚醒する、いつも。右手首にはその掴まれた感触と、証拠の掌の跡が残されたまま。
「呼んでるのか、お前。井戸の底から、其処から繋がる冥府へと。」
意地っ張りだった三成。
そのくせ寂しがり屋だった三成。
今、あの世のどの辺りを彷徨っているのだか知れないが、頭はいいくせに声で、言葉で伝えるのは苦手だった三成の、
精一杯のサインのように思われる。
言えない代わりに手で、身体で、一生懸命意思表示してきた三成からの...彼岸からの。
「逝ってやる、だから待っていろ、せめて・・・家康の首ぐらいの手土産を持参したいんだ。」
握り締めた右手、その手首の跡はもう消えている。
井戸の底
冥府へと至る奈落の闇路
其処を覗けば君は手招き、紅い水面は己を映す
・・・君への手向け、あの憎き葵の御紋の首を携えた、清正の死に様を。
註:これは全部、清正の妄想です。三成は敵討ちも道連れも望んでなど居ません。
自覚は全くないけれど、実は三成を惜愛していたが故に、井戸の底という狂気に取り憑かれてしまった清正の幻想。