こんな夢を見た。

桜が、それこそ雪と見紛うほどにはらはら、はらはらと舞い散っているのを、
幸村は見るともなしに眺めていた。
あたりは金色の光に沈んでいて、だからたぶん黄昏時だろう。
立ち並んだ桜の古木のたちは、まるで降り積もった粉雪を振り落とすかのような
風情でその花弁を散らせているというのに、幸村の顔に風が当たることは、ない。


不意と幸村は、自分は此処で何をしているのだろう、と思った。
何やら為すべきことがあったような気がするのに、はて其れはいったい何であっ
たか、とんと思い出せないのだ。

「私は、」

唇を開いても、其処から何を紡げばよいのか全くわからない。



と。


「華迷子。君は何を忘れてしまったのだね?」

楚々と。
静かな声が、無音の景色を揺らした。
見れば桜の木の傍ら、降りしきる花の真下に。

其れ、は。
佇んでいた。

暗褐色の道服を幾重にも重ねて纏い、袖と裾を棚引かせた其の出で立ちはまるで
『黒い鳥』。
透けるように白い頬が、金色に霞む景色の中に浮かび上がっていた。
ひどく優しい眼差しをして、幸村を見つめていることは分かるのだが、顔の造り
はわからない…黒と暗褐色との二種類の布で、厳重に隠されているためである。

「そう困った顔をしないでくれるかい?わたしがいじめたみたいじゃないか。」

『鳥』はそう言って、非道く美しい微苦笑を浮かべた。
優しい声、優しい眼差し。
其れはとても暖かい、そして大切な誰かのモノであった気がして、

「・・・・・ッ、・・・・・ッッ」

名を、呼びかけて
幸村は愕然とした。


――――――― 何と、呼べばいい?


知っているはず、見知っているはずの其の『鳥』の、
名は果たして一体何であったか。
思い出せないのだ。

「その様子だと、わたしのことも分からないようだね?」

『鳥』は其れでもなお、穏やかな微笑を崩さない。
ああ、知っている、知っているのに、何故出て来ないのだろう?
何故、この麗しい『鳥』の名を、付随する記憶全てを、思い出せないのだろう?

「・・・良いのだよ、幸村。」

幸村の、内心の葛藤を見透かしたように
『鳥』は優しく笑って、言った。

「記憶とは儚いモノでね。人間の其れは特に著しいと相場が決まっている。
 おしなべて世は平和になった、お前も泣くことはなくなった。なれば・・・
 わたしの存在もまた、遠くの地に戻るべき時節が来たと言うことなのだろう。」

お前がわたしを必要としなくなったから
記憶も、時間も、わたし自身も、去るべき時が来たのだよ。

『鳥』はただ、止まない華の下でそう言って。


次の、瞬間。
今まで一度も当たらなかった風が、幸村の顔に突然吹き付けた。
息が出来ないほどの突風の中で、桜がはらはら舞う音がする。

そして。

再び目を開けた時、既に『鳥』の姿は跡形もなく消え失せていた。
名残を語るのは、華と共に幾本か舞い散る漆黒の羽根だけ。
涙が一筋、頬を伝うのを幸村は感じた。

(いって・・・・しまった・・・・)

其れが堪らなく哀しい。おそらくあの『鳥』にはもう二度と逢えまい。
だというのに、一向にアレの名が何であったのか、アレが何者であったのか、
幸村の記憶の底から其れらが蘇ることはなく。
其れが更に、堪らなく哀しい。

「・・・・・ッ、・・・・・・ッッ・・・!!」

叫びたいのに
其の名をありったけの声で呼びたいのに
どうして?声が出て来ないのだろう?




ひた、と
清冽な何かが額に触れる。

「・・・むら・・・、きむら。・・・風邪を引くよ、幸村!」


優しい声、頬を包む両手の感触。
こじ開けた瞼の其の向こうで、今し方消えたはずの『鳥』が心配そうに覗き込んでいた。

「・・・キノト、殿?」
「こんなところでうたた寝とは・・・春だから暖かいとは言え、風は冷たいのだから
 気をつけないと。此の時期の風邪は厄介なのだろう?」

三成から聞いているよ、と嘆息する闇人の長が其処にいた。
ああ、名が分かる。彼の人が何者なのかも分かる。
其の事実に、幸村は安堵した。

「どうかしたのかい?何処か、痛めたとか、」
「いえ、ただ・・・・嬉しくて。」

涙が零れた。止め処なく。
其れがキノトを心配させていると分かっていたが、どうしても止められない。

「あなたが、此処にいて下さることが。
 私が、あなたのことを忘れていないことが。
 ただ・・・嬉しくて。涙が止まらないのです。」

尚も心配そうなキノトに、幸村は正直にそう告げた。
麗しい黒鳥は、少し驚いた風情で其れを聞いていたが。

「怖い夢でも見たのかい?大丈夫、わたしは此処にいるよ。
 まだ天下の趨勢を三成の手にもたらしていないのに、何処へも行きはしない。」

言いながら、涙に暮れる幸村の頭を
ふわりと抱き起こして、その黒衣の腕の中に抱き込んだ。


寄り添う二つの影を包み込んで
ただ、桜ははらはらと舞い散っていた。