『おい、ばかんべえ。』
『ぬしは天下をねらっておるのか?』
ああ、生意気なガキどもだ。いつもいつもそう思っていた。
『ああそうさ!つか佐吉!テメエこのやろ、誰がばかんべえだ、誰が!!!』
ぴしっ!と。官兵衛に向けて突き付ける指の所作までまったく同時。このときは気にも留めなかった、
其の所作が彼らの世界すべてを意味していたなんて。考えもしなかった。思いもよらなかった。
其の理由を、ひとえに“若さ故”なんて言いくるめるのは逃げだ。
『おーまーえーらぁぁぁああああ!!いい加減、温厚な小生も怒るぞ!本気で!!』
『おお、怖やコワや。』
『既に怒っているだろうが。温厚という言葉の意味を調べ直せ。』
『くぉるぅぁあああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!』
大人げないとは思うがこの二人、本当に可愛くなかった。今でもその認識を改められない程度には。
けれど、今になってつくづく思う。何故、怒鳴られ追い回されることが分かり切っていて、この子ども達は自分に
話しかけ、態と怒らせるような真似ばかり繰り返したのだろう。
『斯様に怒りっぽい輩に、天下など任せられぬなァ、佐吉よ。』
『まったくだ。だが・・・わたしも紀之介もいなくなったら仕方ない、任せても良いと思う。』
『何で上から目線なんだよ!そして小生はどんだけ長生きする計算なんだよ!!』
『『莫迦は無駄に長く生きると相場が決まっている。』』
『何時の時代の何処の国の格言だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!!』
いつもいつも
生意気だし、口は悪いし、正直苛ッとした記憶しかない。
にもかかわらず、自分の記憶を、この二人と騒いでいる風景があまりにも多くを占めていることに。
気が付いたその時、残酷な朝陽が白々と空を染めていた。
「やはり・・・星見が的中したか、刑部。」
大阪城、愚者坂を越えた先。
聞き慣れた、引きつるようなあの笑い声ではなく、「それでいい」と言い残し、事切れた吉継の
亡骸を抱きかかえて。
佇む三成の姿は、夜明け前の薄明の中でいっそ綺麗なほどだった。
「はっ!先を見通しても此の様とは、流石は慧眼の刑部!口惜しかったら三成の夢枕にでも化けて出ろ!!」
「そんな必要があるか。私はこれより、刑部の元に逝く。」
「へっ???」
あまりにも平然と三成が言うものだから、一瞬其の言葉の意味が理解できなくて。
官兵衛は間の抜けた声を上げて、ただポカンと其の姿を見遣るしかできなかった。
「刑部が星見を違えたことなど、一度もない。だから分かっていた。貴様が今日此処に辿りつくこと、
此処で刑部が果てること。
すべて、私は知っていた。刑部自身もだ。」
三成の声は静かだった。とっくの昔に、こうなることを受け入れていた者の零す声だった。
「お、おい、それって、」
「これにて仕舞いだ。黒田官兵衛、秀吉様の遺されたこの世、貴殿に託すとしよう。」
その刹那、三成の透けるように白い口元に浮かんでいたのは。
見間違えるはずもない、官兵衛が初めて見る、そして最期の、三成の・・・微笑。
「みつな、」
伸ばした指は空を切った。もとより届かぬ距離と知れてはいたけれど、其れでも伸ばした。
けれど。
吉継を抱きかかえたまま真っ逆さまに、三成は飛び降りた。
その先は断崖。落ちれば、到底助からない。
手枷も重りも抱えたまま、官兵衛は走った。両手を伸ばした。其れでも届かない。届くはずもなかった。
微笑んだ表情のまま、吉継の亡骸諸共、三成は奈落の闇の底へと消えた。
「三成っ、刑部っっ!!」
枷に繋がれた両手を虚空に伸ばす。膝から、全身から、力が抜けた。立てない。
中途半端に差し伸べた、届かなかった指だけが、夜明け前の空に虚しい。
其の、指の先を掠めるようにして飛んでいく・・・
紅い、蝶
どこからやってきたのか、其れとも幻影なのか。紅い紅い蝶の群れは今まさに夜明けを迎えようとする空へ、次々立ち上っていく。
其の、中に二羽だけ。明らかに他と違う舞い方をする蝶がいる。
官兵衛は追った。じゃれ合うように前後しながら舞い遊ぶ、二羽の深紅の蝶を。
あれは、三成と吉継。鈍い官兵衛にも分かる。間違いない。
「三成・・・・っっ!刑部・・・・・・・っっっ!!」
何度も呼んだ。声の限り、あの二人の名を。
憎たらしい子どもだった。生意気な子どもだった。けれどそれでも、可愛い可愛い弟たちだった。
「待て、三成!待ってくれ、刑部!!!」
死ねばいい、なんて思ったことはない。
ちょっと懲らしめてやろうと思った。其れだけだった。
そうして、二人が反省したら、昔みたいに笑って許してやる、そのつもり、だった。のに。
『ぬしに幸あれ、黒田官兵衛。』
『約束だ、私も刑部もいないこの世、貴殿に託す。』
二人の声が聞こえた。息を呑み、立ち止まった官兵衛の、其の視線の先。
二羽の蝶は、別れを告げるようにひらりひらりと官兵衛の眼前を舞い遊び、消えた。
いつの間にか夜が明け、白々と明るく朝陽が差す空へと。
「何が“貴殿”だ・・・何が“幸あれ”だ・・・!!こんな、こんなときになって、こんな・・・・っっ」
がくりと膝を折る官兵衛の頭上で、残酷な朝は明けてゆく。まるで何事もなかったかのように。
「何故じゃ・・・・・・
何故じゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
官兵衛の慟哭すらも白く塗りつぶし、無垢の朝陽は残酷な夜明けで世界を染めていく。
閉ざされた、彼らの世界。二人ぼっちの世界。
幼い頃から聡かった、あの子どもは見抜いていたのだろう。
官兵衛の頭上に在る、不運の禍つ星の光を。
どう足掻いてもその輝きから逃れられぬ官兵衛を、解き放つために、彼らは。
漸く気が付いた。今になって、今更になって。でも。
すべては、もう・・・手遅れ。